約3年前に肺がんを告知された母が、7月10日永眠しました。
3年間、母と共にがんと闘いました。
母に捧げた3年間・・・。
放射線、抗がん剤、イレッサ、ガンマナイフ、
あらゆる治療を受けてもがんは広がるばかりでした。
途中精神的にもまいってしまった母、
精神科にも入院しました。
ゆるやかに流れていた時間は、
母が歩けなくなってから急激に進み始めました。
車いすから寝たきりになったのはあっと言う間で、
その後は食べられなくなり、点滴で命をつないでいました。
家に帰りたがっていた母を在宅看護に切り替え、
最後の1ヶ月は母につきっきりでした。
昼間はすやすやと眠り、
夜は苦しんで眠れない。
きっと孫たちに苦しむ姿を見せたくなかったのでしょうね。
痛みに苦しんだ夜、
朝方に痛み止めの注射を打ってもらい
その後やっと眠れたかと思ったら
母は呼吸をするのをやめました。
「お母さん、がんばって!」と呼びかけても
逝くのを止めることは出来なかった・・・。
最後には私のことを「お母さん」と呼んで、
そんなあなたをいつしかわが子のように感じ始め、
大好きでした。
永遠に私の心と共に。
3年間、母と共にがんと闘いました。
母に捧げた3年間・・・。
放射線、抗がん剤、イレッサ、ガンマナイフ、
あらゆる治療を受けてもがんは広がるばかりでした。
途中精神的にもまいってしまった母、
精神科にも入院しました。
ゆるやかに流れていた時間は、
母が歩けなくなってから急激に進み始めました。
車いすから寝たきりになったのはあっと言う間で、
その後は食べられなくなり、点滴で命をつないでいました。
家に帰りたがっていた母を在宅看護に切り替え、
最後の1ヶ月は母につきっきりでした。
昼間はすやすやと眠り、
夜は苦しんで眠れない。
きっと孫たちに苦しむ姿を見せたくなかったのでしょうね。
痛みに苦しんだ夜、
朝方に痛み止めの注射を打ってもらい
その後やっと眠れたかと思ったら
母は呼吸をするのをやめました。
「お母さん、がんばって!」と呼びかけても
逝くのを止めることは出来なかった・・・。
最後には私のことを「お母さん」と呼んで、
そんなあなたをいつしかわが子のように感じ始め、
大好きでした。
永遠に私の心と共に。
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